バックナンバーへ
戻る
これらの風景、わかりますか?・・・・・銀座なんですよ!歌舞伎座周辺の路地裏です。
歌舞伎座の正面は、にぎにぎしい雰囲気ですが、一歩入るとまだまだ町屋風な佇まいが残されていて、古くからの土地の趣きが感じられます。
お芝居の後、なかなかこちらの方へは足を向けられないと思いますので、写真でご紹介します。
 
歌舞伎座の位置するあたりは、以前は『木挽町』という町名で呼ばれていました。
木挽町の「木挽」とは・・・・・木材を大鋸(おが)でひき切ること。また、それを職とする人を意味します。
 
慶長8年(1603)、江戸城修築の再工事が始まると、諸国各地から多くの有力な商人、職人が集まりました。商人たちは出身地ごとに集まり、その出身地を町名とすることが多かったのに対し、職人たちはそれぞれの職種ごとに集まり住んで、職名を町名とすることが多かったそうです。
たとえば、鉄砲町であり、桶町であり、そして木挽町・・・。大規模な工事がはじまると大勢の木挽職人が必要となり、その者たちが多く住む町であったことからとも、また鋸商(のこぎりしょう)が多かったからとも言われています。
 
多くの人たちが住み繁栄していた寛永の頃、山村座・河原崎座の芝居小屋ができ、その後も続々と芝居や見世物小屋が木挽町に集まりました。芝居といえば木挽町、木挽町といえば芝居とくるほど、芝居は木挽町になくてはならないものになっていきます。
しかし、天保12年(1889)、天保の改革によって、堺町葺屋町の中村座・市村座とともに木挽町の森田座・河原崎座も浅草猿若町へ移転してからは、芝居町としての賑わいに陰りがみえてきます。
しかし、それから明治維新を経た、明治22年、ふたたび木挽町に芝居の伝統の灯がよみがえります。新たに、芝居小屋が木挽町に設立されたのです。これが歌舞伎座の誕生です。
一方では、ところどころマンションやビルなどに生まれ変わっている(旧)木挽町ですが、歌舞伎座と共に歩んできた由緒ある土地です。
木挽町通り・・・・・路地裏・・・・・まだまだあちらこちらで「木挽」が見つかります。

掲載情報の著作権は歌舞伎座に帰属しますので、無断転用を禁止します。
Copyright(C) 2005 株式会社歌舞伎座