バックナンバーへ
戻る
今では江戸前といえば寿司のことですが、昔はうなぎ屋の看板に書かれていました。
江戸湾(いまの築地あたり)で獲れていたからだそうです。
江戸時代の前期にはガマ焼きといい、街道筋の立て場茶屋で、駕籠かきや、馬子達のスタミナ食として売られていて、そのまま串刺しにした姿が蒲の穂に似ていたので、ついた名のようです。
 
歌舞伎も江戸時代に庶民が生み育てた伝統芸能ですが、うなぎが一世を風靡したのも220年前、江戸で始められた蒲焼が登場してからです。
歌舞伎と鰻?と思うかもしれませんが、歌舞伎のなかでもうなぎを描いた作品があります。
「東海道四谷怪談」の作者、四代目鶴屋南北の「謎帯一寸徳兵衛」文化11年(1811年)の中では、うなぎが重要な役割をしています。
ちなみに、この時の主役は五代目松本幸四郎だったそうです。
そして、この芝居を観た三代目尾上菊五郎が文政8年(1825年)に「四谷怪談」を南北に描いてもらい、これにもうなぎがでてきます。
「本日土用丑の日」とは夏枯れのうなぎ屋を救った江戸の才人、平賀源内の名文句。
夏やせにうなぎは、万葉の時代から有名ですが、土用にうなぎを食べる習慣はこの言葉から生れたといいます。
商売はアイディア次第。これは今も昔も同じではないでしょうか。
掲載情報の著作権は歌舞伎座に帰属しますので、無断転用を禁止します。
Copyright(C) 2002 株式会社歌舞伎座