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歌舞伎座

解説

歌舞伎座復興記念の際に限定出版されたその名も「歌舞伎座」という本です。著名な方々からの祝辞、歌舞伎座関係者からのご報告、川尻清著「木挽町の芝居」が納められています。 ダグラス・マックアーサー氏、当時の内閣総理大臣であった吉田茂氏らの祝辞、当歌舞伎座の設計に携わった吉田五十八氏の歌舞伎座の設計趣旨も記載しております。
本書には「歌舞伎座物語」及び「年表」が記されておりますが、今回は割愛させていただきました。今後準じ追記していく予定でおります。

連合国最高司令官
ダグラス・マックアーサー元帥

連合国最高司令官 ダグラス・マックアーサー元帥

歌舞伎座が戦争の瓦礫から復興したことは、日本にとって家庭や、学校や、教会や、お寺、或ひは工場などの再建に優るとも劣らぬ重要さをもつものであると考へられます。本劇場が復興したといふことは、日本国民が今後も物質上の生存問題に挫けず、芸術の有する輝きや、美しさや、悦びを創造し且つこれに感応していくであらうという確信を世に表明したものに他なりません。

かつて日本の演劇界には、ある種の変則的な倫理観を不当に重視したり、想像の自由に圧迫を加えたりした種々の事情がありましたが、それらはことごとく、再興前の歌舞伎座の、あの戦火に汚れた黒い壁や捻れた鉄骨と共に一掃されてしまったのであります。

このすばらしい歌舞伎の殿堂が、単に過去の最善のものを保存するにとどまらず、さらに世界の演劇界に向かってより一層貢献をする刺激となることを祈って止まぬものであります。

一九五一年一月二日
連合国最高司令官
ダグラス・マックアーサー元帥

総司令部民間情報教育局長
D・R・ニュージェント中佐

総司令部民間情報教育局長 D・R・ニュージェント中佐

世界的に有名な歌舞伎座が、このやうに立派に復興したことは、新しい日本において創力が湧き上がるのを確信をもって注目していたすべての人々にとってまことに悦ばしいことであります。

当劇場は、演劇界における最上級の形容にふさわしい殿堂なのであります。私は劇作家、演出家、舞台装置家および俳優の諸氏が、この舞台から、観客を感動させ又喜ばさうとする大望に拍車をかけられて、世界的な名声に値する水準の高い業績を挙げられる様、希望するものであります。

最後に雄々しくも歌舞伎座を再建された方々に、心からお祝ひを申し上げる次第であります。

一九五一年一月二日
総司令部民間情報教育局長
D・R・ニュージェント中佐

『歌舞伎座竣工祝辞』
内閣総理大臣 吉田茂

内閣総理大臣 吉田茂

戦後第六年目の新春匆々東都の空に、再び和風豊かな歌舞伎座の姿を見るに到ったことは、復旧途上、まことに心嬉しく存ぜられます。つとに内外人士から、我が国の代表的古典芸術と目されている歌舞伎が、今後その古き伝統を生かし且つ新しき思想をもとり入れて益々完成されんことを期待しつつここにこの落成を祝する次第であります。

『歌舞伎座開く』
文化財保護委員長 高橋誠一郎

文化財保護委員長 高橋誠一郎

日本演劇の大殿堂歌舞伎座が、現代建築芸術の粋を盡して再建された。

歌舞伎座の歴史は、即ち、明治中期以降における日本演劇の歴史である。明治二十二年、同座が始めて木挽町に建設された時は、欧化主義の風潮にかられて、「高尚なるも人情に遠からず、閑雅なるも世態に背かず、優美と快活とを兼ね備え、楽んで淫せず、和して流れず」、日本演劇を、「上流社会の観覧に供して恥ずる所なきの域に達せしめ」ようとする所謂演劇改良の運動熾烈なるの時であった。同年十一月、初開場の番附には、「新旧の演劇を興行し、改良の質を挙げ可申候」と書き出されていた。劇場建築の様式から云っても、興行法から云っても、上演種目の選定から云っても、伝統的なものを破壊する所がすくなくなかった。興行界における旧勢力は、この演劇の出現とともにその影を消そうとした。毎年五回の開演は、劇場関係者の生活に安定を与えた。一代の名優市川團十郎も、これによって長い経済上の悩みからようやくにして開放されることが出来たと伝えられている。

やがて、演劇改良運動は儚なく消え、創立者の福地櫻痴は興行件を譲渡し、経営者は千葉勝五郎から田村成義、井上竹次郎等に代り、更らに大河内輝剛、三宅豹三等に変じ、遂に松竹合名会社の支配に移り、建築の外郭は純然たる西洋式から「奈良朝時代の典雅壮麗な趣と桃山時代の豪宕絢爛な味とが渾然一体となった」純日本的なものと化し、更らに再三の火災毎にその構造を改め、登場俳優の顔ぶれも、團菊の歿後、次第に変化したが、しかも、歌舞伎座は常に、我が劇界の首位を占め、日本演劇文化の向上に変わらざる寄与をなしてきた。しかるに、この演劇文化の殿堂は、昭和二十年、戦争の劫火によって無残に焼失した。歌舞伎座のない劇壇は、実に、哀愁の感深いものであった。しかも、今やこの大劇場は「国民文化の振興、各国文化の交流等、文化国家建設の一基盤」たらんとするの意図をもって復興した。誠に、我が演劇文化の為に慶賀に堪えない。

演劇は、殆どあらゆる種類の芸術が結合され総合された芸術である。劇場は、その時代その社会の縮図である。国民は、この空間構成の芸術の内部において演出される総合芸術によって美的感覚を養い、また、観光の外客はこれによって日本文化の発達の跡を知るべきである。

模範劇場歌舞伎座は竣工を見た。この上は唯だ、この檜舞台に登場する俳優諸君の優秀なる演技と経営者の時代に適合した有意義なる興行方針とを熱望するのみである。

終に臨んで、万難を排して、この演劇の大殿堂の復興を企画し、巨資を拠出せられた大谷竹次郎氏等の有志諸君に深甚なる敬意を表する。つとに明治十九年の交において「劇場改良法」の著者は曰く、「事物改良の成敗は概ね資本の有無に帰せざるはなし。資本ここに集まれば、劇場を改良して見物人の耳目を悦ばしめ、兼て又、都会の盛観を添ゆること」を得べきであると。

『慶びの言葉』
東京都知事 安井誠一郎

東京都知事 安井誠一郎

久しく待望せられた歌舞伎座の復興建築が完成し、昔ながらの壮麗典雅な桃山風の殿堂を眼のあたりみて、感慨無量、まことに喜びにたえない。

戦争も六年前の話しとなり、経済力もやや復興し、国民の精神的安定感も増してきた今日では、歌舞伎座の復活ということは、別に驚くに当たらぬことなのであるが、終戦直後の混乱時代には、むしろ夢のような話で、この大がかりな歌舞伎座の復興再建はちょっと期待しがたいものであった。その理由は申すまでもなく、一つには一般的な資金資材の欠乏によるものであり、他は民主化のやかましい当時において、古典歌舞伎は封建思想への復古的傾向を醸成しはしないかという危惧の念がもたれたからである。

ところが一方都民のあいだでは、ぜひとも都民劇場というようなものを設けたいという熱心な要望が強かった。戦後の潤いのない生活環境に疲れた都民のために、ぜひ、情報の泉を見出したいという、もっともな欲求であった。私もまた都民文化の向上ということ、また漸くその必要を痛感してきた国際観光という見地から、首都東京の中心に、代表的な劇場を設けようという気持ちになった。その実際的なプランは私の周囲の人々のあいだに、いろいろとあったようであるが、結局これを斯界の第一人者である大谷竹次郎氏に諮った次第である。これは昭和二十二年の春であったと記憶しているが、当時大谷氏も歌舞伎座の復興について腐心せられていた模様で、私がひそかに脳裏に書いていた計画と一致し、「それでは一つこの際由緒あり、親しみある歌舞伎座を再建し、これでもって東京都民の舞台芸術への憬れに応えようではないか」という話ができあがった。

その次の問題は総司令部の諒解であるが、翌二十三年六月総司令部から、建築関係ではクラス、ハート、スタネックの三氏、演劇関係ではトムプソン、ガーキーの両氏を、知事公館に招いて、趣旨を説明し、幸いに好意ある諒解を得たわけであった。もちろんこれには二三の条件がついていた。たとえば独占禁止を排する意味のおいて、松竹がこれを直営することなく、株式会社歌舞伎座をあらたに創設すること、また所謂歌舞伎劇は年間全興行日数の何十%を超えてはならない、というような点であった。こうして文部省当局もこの企画に賛意を表し、二十四年秋には株式会社歌舞伎座が創立せられ、発起人としての私の役割も一段落をみたのであるが、この間大谷竹次郎氏をはじめ創立に参加せられた諸氏が一貫して、この大事業に払はれた犠牲と協力に対しては、ここに多大の敬意を表してやまない次第である。

わが国舞台芸術の殿堂である歌舞伎座が、新春とともにその豪宕華麗な偉容を再現するといことは、単に首都東京の偉観たというばかりではない、文化日本の燦然たる芸術の伝統を象徴するものであって、国民の誇りであり、慶びである。その輝かしい将来の発展を切に希ってやまない。

『歌舞伎座再建』
都民劇場運営委員長 小宮豊隆

都民劇場運営委員長 小宮豊隆

歌舞伎座が創立されたのは明治二十二年(一八八九)だというが、それ以来幾度か改築されたとしても、ともかく歌舞伎座は日本のあらゆる喜びと悲しみとを見て来ているわけである。その歌舞伎座が昭和二十年(一九四五)の五月に戦災を受け、その後再建にとりかかられ、昭和二十六年(一九五一)この初頭から華華しく開場されることになつたというのも、何か象徴的なことであるやうな気もする。衣食足つて礼節を知るというが、今日歌舞伎座の再建が実現を見たのも、日本が着着復興しつつあることを具体的に示すものだと言つていいだろう。さう思えば、これはめでたいことである。

歌舞伎座では歌舞伎を中心とする芝居を見せるのだという。これも結構なことで、歌舞伎座に行きさえすれば、必ず伝統的な純粋な歌舞伎が見られるということになつていれば、都民は無論のこと、内外の旅客でも、あれこれと選択に頭を悩ますことなく、まつすぐに歌舞伎座をさして行くことができるのである。外客接待用としての歌舞伎の意義は、さうなつて初めて十分に発揮されるだろう。

ただ大事なことは、歌舞伎座では、必ずいい歌舞伎を見せることである。外客の機嫌をとるために、歌舞伎の伝統を破らないことである。こつちはこつちの見識で、いいと思うものだけを見せていれば、それで結構客は呼べる。かりに外客には通じないところがあつたとしても、それは少し馴れれば必ず通じる筈のものだから、前以つて下らない遠慮や卑下をする必要はない。分らなければ、分かるまで来てもらえばいいのである。

勿論歌舞伎の中には、日本人の眼から見ても、随分下らない部分が沢山ある。伝統を尊重すからと言つて、何もさういうぼろまでも大事に保存して置く必要はない。切り捨てるべきはどしどし切り捨て、変更すべきはどしどし変更して差支ないのである。ただ何をするにしても、すべて日本人の見識と責任に於いてやるべきだと思ふ。

ただ問題になるのは吉右衛門や三津五郎や、猿之助、時蔵、幸四郎、芝翫、梅幸などを除いて、伝統的な純粋な歌舞伎のやれる投者が、今日非常に少ないことである。勿論菊五郎劇団を初め若い役者たちは歌舞伎の正道を踏んで、鍛練にも身を入れているやうではあるが、どういうものか本格的な歌舞伎というものが肚に這入つていないらしく、台詞廻しにも形の上にも味がなく、且つ見物に打ち込んで来るカに不足する憾みが多い。

これは一方から言うと、若い役者は新しい教育を受けた結果、未熟な新しがりやになつて、歌舞伎の伝統的な様式を古いと感じ、歌舞伎の修行に本気に打ち込めないせいなのかも知れない。それにはそれで一往の理屈はあるので、大きな立場から言へば、歌舞伎は過去のものであつて、今日のものではないのである。然しその歌舞伎の様式でも、それに魂を吹き込みさへすれば、今日のものとして、十分通用させることができるのは、吉右衛門の舞台がはつきり証明する。ただ吉右衛門の仕事のやうな仕事は、なまやさしい心掛けではできることではないのである。私は多くの若い役者たちに、この歌舞伎座の再建を機会に、自分たちの道を、歌舞伎に選むか、新劇に選むかの、はつきりした覚悟を持つことを助言したいと思う。歌舞伎に打ち込むことができなければ、実は新劇に行くより仕方がないのである。

日本の新劇が、新劇として健全な発達をしないのは、新劇自身の罪であるのかも知れない。然し歌舞伎の役者が歌舞伎の巣から時時顔を外に出して、新劇の真似をするからででもあると言えないこともない。さうしてこのことは、歌舞伎を壊すとともに新劇を生ぬるいものにする。然しこれは需要があるからさうなるので、結局は見物の文化水準が低い為に、歌舞伎は見たいが、歌舞伎の約束には通じないので、見ても一向面白くない。新劇の新しい内容には喰ひつけないが、然し今様に翻訳された歌舞伎だつたら分かるというので、とかく歌舞伎が新作されるのだろうと思う。それはそれで致し方もない。ただ必要なのは、役者が自分の旗色をはつきりさせることである。例へば役者と作者とが志を合せて、もつと本気にこの仕事の中へ這入つて行くとすれば、ここに真の新劇入門としての、言はば歌舞伎と新劇との中間劇としての、新しい道が拓けて行くことは、必定だからである。

歌舞伎座では、新作歌舞伎もやらせる計画だという。どうせ純粋な歌舞伎ばかりでは毎月の興行を繋いで行くことができない以上、この方面で作者にも役者にも、もつと時間と報酬とを与へて、例えば綺堂物のやうな安手でない、新しい中間劇をやらせる計画を立てたらいいと思う。役者の側から言えば、役者は徒らに左團次だの菊五郎だのの跡を追うのでなく、日本の未来の新劇に新しい表現を寄与する気で、この道を勉強するがいいのである。日本の新劇は、見て面白くないのが欠点である。内容のあるものを面白く見せることができなければ、恐らく日本では新劇は栄えない。中間劇はその点をうかがうのである。

『よろこびのことばにかへて』
文芸家協会評議員 久保田万太郎

文芸家協会評議員 久保田万太郎

昭和二十六年一月、歌舞伎座、新装成り、初開場

東京のまッたゞなかのかすみかな

これより、また、歌舞伎、わが世の春をうたふなるべし。

花暖簾すなはち東風のわたりけり

むかしの歌舞伎座のできたのは明治二十二年の十一月なり。

その年、その月、おのれもまたこの世に生をうく。

しかも、その年よ・・・・・・

わすれめや。

暖冬や憲法発布かたりぐさ

『ふるさと・歌舞伎座の復興』
文芸家協会理事長 舟橋聖一

文芸家協会理事長 舟橋聖一

東京に生れて、故郷を持たない私は、昔の歌舞伎座が、心のふるさとのやうな、懐しさで思ひ出される。私の手許にある芝居絵葉書の中で、一番古いのは、明治四十三年四月十三日の消し印の歌舞伎座四月狂言の中幕「鞍馬山祈誓掛額」である。この写真は、現羽左衛門と六代目の舞台姿で、ちようど、私が七歳の春、おそ生れであるから、まだ、小学校へ上つては居らない。この時代から私は、歌舞伎座の舞台に親しみ、月毎の狂言に関心を持つていたらしく、狂言簪・絵本筋書・絵本番附・舞台絵葉書等を買ひ集めたものが、幸いまだ手許に残つている。

その頃は、武田の案内で、たいてい平土間か、仮花道のそばの新高で見物した。

その歌舞伎座が、空襲に焼け、みにくい残骸となつて、木挽町の一角にさらしものになつて居た間、その前を通る私の心は、何とも言えない憂愁にとざされた。いたいたしくて見るにたえない思ひであつた。又ある時は、その焼跡に入つて、ここいらが、花道か。ここいらが舞台か。と、華やかな昔の夢を遠く、偲びながら、さまよつたこともあつた。

いよいよ復興すると聞いたときの喜び。---東京に失はれた大きな灯が輝く日が近いと思えば、私の胸にも又、一つ灯がともる。

それにしても、故羽左衛門・故菊五郎・故幸四郎の諸優が、歌舞伎座の復興を見ないで、他界したのも惜しまれるが、尚、生きて活躍を続けている吉右衛門・猿之助をはじめとする現俳優によつて、歌舞伎の伝統と、現歌舞伎の創造とが、その新しい舞台を通して、いよいよ発展充実することを期待して止まない。

『祝福と夢』
早稲田大学演劇博物館長 河竹繁俊

早稲田大学演劇博物館長 河竹繁俊

いよいよ歌舞伎座の復興工事が成つて、開場式を挙げた。まず以てめでたい。

この歌舞伎座が開場式を挙げたのは、こんどが多分三回めかと思う。そしてそれが、いつといつで、その度毎にどのような意味と革新と進歩とがあつたかは、この記念の本があきらかに述べていると思う。しかし、今回の開場式は、「三度め」という言葉にちなむわけではないが、ことに記念すべきものであり、また、種々の意義深いものを包蔵しているように思われる。

今回の復興は、終戦後、まだ間もないころから、努力がつづけられていたようだから、約五年間というもの、この大事業のために、大谷社長をはじめ当事者の、なみなみならぬ苦心が重ねられたことであろう。が、そのかいあつて、基礎や規模においては大差なくとも、これまでの劇場体験をすべて活かし、また適用した、集成的な舞台芸術の殿堂歌舞伎座として、ここにその偉容をかがやかすに至つたのである。

わたくしどもは、わが演劇文化の世界に、この大きな施設が実現して、東京の名物が復興され、日本の名物が再現し、さらにやがては世界的名物ともなるべき歌舞伎座が、りつぱに出来あがつたことには、重ねて、心からなる祝福をおくるものである。

歌舞伎座の創建は明治二十二年だから、六十余年の歴史に過ぎないが、東京中の現存劇場としては、もつとも古い伝統保持者だと思う。それから、日本中に歌舞伎座という座名の劇場は、相当数にのぼるであろうが、この名前の先祖は、東京のこの歌舞伎座なのである。言わば、明治・大正・昭和の三代にわたつて、いつも劇場界の王座として、ゆるぎなき地位を維持してきた劇場だといつても差支えないのだ。つまり、半世紀以上もの長いあいだ、わたくしども都民に、また国民ぜんたいに、したしまれてきた、由緒深い歌舞伎座が、かく花々しく開場したことは、どんなにか都民の心持に、光りと豊かさとをもたらすことであろう。また、それは見物にきた都民ばかりではなく、じつさいに歌舞伎座のなかにはいらずとも、遠方の人たちにしても、ただ歌舞伎座が出来たという事を知るだけでも、何とはなしに、胸のふくれるようなよろこび、あたたかみ、明るさを感じさせるのではなかろうか。ともすれば険悪な、あわただしい、あじきない世の中に、一つのなこやかなオアシスが出現したように感ぜられるのではなかろうか。

こう言えば、どこやらお世辞めいて、くすぐつたい気もするが、つきつめて、また少し誇張して考えれば、必ずしも、わたくしだけの感傷ではあるまいと思う。

だいたい、歌舞伎座が、こうした社会的意義ないし文化的意義を持つものと解されるならば、同時に、歌舞伎座そのものの責任も、また決して小さくはないと言わねばならない。

業界人、演劇関係者ばかりでなく、一般の人々から、大きな期待をかけられる以上、それにこたえるだけの十分の心構えがあつてほしい。もちろん、賢明な当局者には、ひそかに期するところの名案が、続々とあるであろうことは想察するが、わたくしどもの立場から、こうありたいと念願する夢の二三をこの機会に非礼でも述べておきたい。

さて、何をさしおいても考えられるのは、歌舞伎劇の擁護であること言うまでもない。

歌舞伎座が歌舞伎芝居の殿堂になるべきことは、名詮自称とも申すべきである、いつたい、歌舞技は文楽などの人形浄瑠璃芝居と同じく、江戸文化の結晶であり、文化財なのである。江戸時代には現代劇であつたにしても、明治維新以来、八十余年間、時の流れで磨きがかけられ、押しも押されもせぬ、古典的な舞台芸術として認められてきた。けれども、それと同時に、現代の生活感情からは遊離するの傾向を見せてきた。そこに、警戒すべきものを感じないわけにはいかない。

江戸時代―すくなくとも、その後半期にあつては、歌舞伎はじつに、日本演劇そのものの名称であつた。今でいう新派も、新劇も、軽演劇も、もしくは劇映画までも、一切包含したような、唯一の演劇存在だつたのである。けれども、時勢は急激に移つた。こんにちとなると歌舞伎は、芸術的にもすぐれ、社会的にも高く評価されてはいるものの、擁護保存の声は、期せずして内外から挙げられるようになつた。で、歌舞伎座は、その要請にこたえるような企画や施設について、特に考慮してほしいのである。

そのためには、たとえば、もつともよき配役による、代表的作品の良心的上演はもとより、民衆のために歌舞伎を正しく鑑賞する機会を与えたり、学生のための特別の観劇日を設けたりする、等々。また、施設としては、歌舞伎研究所とか相談所のごときものを附設して、将来の根本対策の樹立や、歌舞伎の正しい在り方の検討に任ぜしめたい。そうして、これらの企画や施設のためには、政府や文化財保護委員会なども協力し、助成の手をさしのべてもらいたい。

次ぎには、歌舞伎座をして、ただに歌舞伎芝居のためばかりであらせたくないのである。

一方に歌舞伎劇の殿堂であると共に、他方、国民的な芸能の実験劇場ともなるならば、さらにけつこうだと思う。芸能という中には、音楽もはいる、舞踊もはいる、歌劇もはいる。あるいは、新劇や現代劇のためには、入れ物が大きすぎるかもしれないが、音楽を加味した、大衆的なものなら差し支えあるまい。いわゆる再建日本の、文化国家にふさわしい劇場芸術を振興させるためにも役だつてほしいのである。そうして、都民のため、民衆のために、現代生活を反映した、おもしろい演劇、楽しき芸術をも提供し、生み出すためにも貢献してほしい。

前にもちよつとふれたが、歌舞伎は江戸時代の文化遺産であるばかりでなく、極言すれば、約一千年の伝統をもつ日本芸能の集大成されたすがただと言つてよいのだから、その演技と演出とを、現在における最高水準において、保持擁護することは、わたくしども国民に課せられた責務である。この点、国宝級の美術品や建築の保存と同列において考えらるべきものだと確信する。そうして、この擁護は、同時に、間接に、新世代の新らしい芸能を振起するに役だつのだ、という信条のもとにこの事業の遂行に処してほしいのである。

かくして、もしも古典歌舞伎のために、一年の何十パーセントかを、たとえば六ヶ月間を、また他の新興芸能のために、一年の何十パーセントかを充当するというようなことが実現すれば、かつてヨーロッパにあつた帝室劇場・国立劇場の行き方にも似てくる。

現在のような状態では、まだ当分、国立劇場の建築も望めないとすれば、歌舞伎座のような劇場を、実質的に、国立劇場的な役割を持たせてみてはどうであろうか。そうしてここで実験ずみの演劇作品を、各都市の公会堂や公民館に配給し、演劇文化の準位向上を期するようにしてはどうであろう。

夢をならべれば、まだあるが、夢の実現には困難がともなう。

今後の歌舞伎座の運営には、芸術的にも経済的にも、容易ならぬ難関に直面することであろう。しかしながら、その文化的使命と社会的意義の重大さとを、十分に意識して、歌舞伎の擁護保存のための百年の計をたて、同時に、新らしい演劇芸術建設のために努力されたい。そうして、歌舞伎座なるものの光輝ある伝統をますます発揮するよう、健全なる発展を祈つてやまない次第である。

『開場に際して』
株式会社歌舞伎座社長 大谷竹次郎

株式会社歌舞伎座社長 大谷竹次郎

今日ここに歌舞伎座の開場式を挙げるに当つて、一言、株式会社歌舞伎座社長及び松竹株式会社社長として御挨拶を申上げます。

思い起こしますと、兄白井松次郎と私とで、この歌舞伎座の経営を担当いたしましてから今年で三十九年になります。この長い間、私共は自己の非才微力をも顧みず、ひたすらわが国第一の歌舞伎座の舞台の上で、最も良き演劇芸術を皆様の前に御覧に入れることのみを念願として努力し、幸いにも歌舞伎座の権威ある名声を只の一日も他に譲ることなく過ごせました。

この三十九年間に、不幸、当歌舞伎座は三回の火災に遭つて居ります。既に御存じでも御座いましようが、最初は大正十年、次ぎは新築半ばでは御座いますが、大正十二年の関東大震災で完成間近い当座は祝融の手に襲われました。そして第三回目は、太平洋戦争下さしも耐火耐震を誇つておりました当座も昭和二十年五月二十五日、戦火によつて一塊の灰燼と化してしまつたので御座います。考えて見ますと、三度び歌舞伎座の火災に遭いました私は、三度びその再興に微力をいたしたことになります。今、新しく復興成りました歌舞伎座を仰ぎまして、つくづく既往三度びの歌舞伎座再興の都度味いました様々の苦難や苦労が思い浮びます。そして、第一回よりは第二回へ、第二回よりは第三回えと、段々とその艱難の度が加わり、今回の復興こそは、私にとつていかにひっ生の努力を要しましたかは、大戦後の経済諸事情を考へ合せて下されば、自とお解りの事と存じます。

一魂の灰燼と化したあの歌舞伎座の残骸を見て、この劇場と半生を共にして来ました私としましては、到底そのままにしておくわけには参りません。一日も早く、一刻も早く何とかしてその再建をと考へ、いろいろ考慮を廻しましたが、当時松竹株式会社及び周囲の事情が思うにまかせず、その間の私の焦慮懊悩は、何卒お察し願います。

しかしついに私と思いを同じうする有志の方々の御助力が頂けることとなり、又伝統ある日本演劇の興隆と、東京の名物であつた歌舞伎座の再興は、一つに東京都民の文化の向上のみならず、わが国文化の振興、国際文化の交流にも役立ち、延いては観光客吸収によるわが国経済再建にも資するところが大であると言う、東京都当局の理解ある御協力と、幸にも関係方面の御諒解をも得ましたので、ここに一昨年十月株式会社歌舞伎座が設立され、設計は吉田五十八、木村武一両氏に、工事は清水建設株式会社に委ね、一意歌舞伎座復興にまい進いたしました。かくて十五ケ月、かく新しい歌舞伎座が、旧に倍する完全な設備と、豪華な施設とを以つて復興東京の中央にその偉容を目出度く再現し得ました。

以上申述べました如く、私は、ここに第三回目の歌舞伎座の再建を成就いたしましたが、さてこのわが国の劇場を代表する最高の殿堂の今後の経営につきましては、多年劇界に尽瘁して、豊富な経験と実力を保持する松竹株式会社が、その任に当る運びとなりました。誠に松竹白井会長を初め私の光栄とも幸福とも感ずるところであります。が、同時に切にその責任の重さを痛感いたさざるを得ません。今後の劇場経営に当りましては、諸経費の膨脹や高率の入場税、大小道具衣裳代の騰貴等の諸問題があり、更に最も私の留意している問題に、俳優の生活問題があります。戦後他の芸能人と比べて、よく乏しきに耐え、芸道に励んでおります現在の劇場俳優諸氏の生活を見るにつけ、何んとかして俳優の生活を向上安定させなければいけない、そして心おきなく豊かな心持で益々芸にいそしんで貰いたいと、常に思つております。この俳優の生活の向上安定と言うことは、若い俳優の養成と言うことと共に、現在のみならず将来の劇界を考えます時、誠に大きな緊要な問題であると愚考いたします。是等の諸問題を考えますと、私共の前途には幾多の茨の道が横たわつていると申せましよう。しかし日本演劇の向上とその振興に対する熱情では、決して人後に落ちないと自負いたします私共は、常に芸道に精励これ努めている出勤俳優諸氏や、劇芸術に精通せらるる劇壇諸先生の御助力のもとに、今後如何なる困難をも切り拓いて、唯一途に、この新しい舞台の上に立派な芸術の華を咲かせて行くことのみに専念して、この経営に当たる覚悟でおります。

どうか大方の皆様におかれても従来に倍して、御遠慮なき御叱正と御鞭撻とを私共の上に賜わりますよう切に御願ひいたしまして御挨拶といたします。

『御挨拶』
松竹株式会社会長 白井松次郎

松竹株式会社会長 白井松次郎

東京都の中心、町の名も由縁深い木挽町に、宏壮な大建築として堂々たる威容を誇る歌舞伎座が、目出度く復興したことは、何ものにも較べられぬほど喜ばしいことである。

日本演劇の大殿堂は、ここに再現したのであつて、日本は代表的、演劇劇場を再び持つことが出来ることとなつた。フランスの代表的劇場がオデオン座であり、アメリカの代表的劇場がメトロポリタン座であるように、日本の代表的劇場たる歌舞伎座が、ここに復興したことは、国家の為にも御同慶に堪えぬことである。

昭和二十年五月戦災を受けてから、永い間歌舞伎座は無惨な姿を見せていたのであるが、日本演劇の為め、日本文化の為め、これを復興しなければならぬということは、私共大谷、白井の何よりも大きな懸案であつた。

しかし復興する為には非常な困難が伴うばかりでなく、莫大な巨費を投ずることに依つて、果して経営が成り立つものかどうか、この見透しは全く不可能であつて、むしろ採算上では最も危険な事業としなければならなかつた。そうかと言つて、このまま歌舞伎座を放置することは、私共大谷、白井の信念が許さなかつたのである。

歌舞伎座の復興は、取りもなおさず歌舞伎の復興である。私共が今まで苦闘して来た五十年は、日本の誇るべき古典芸術歌舞伎を保存し発達させ向上させることに、その殆んど大部分を献げて来たのであるから、歌舞伎座をそのままに放置して、その無惨な姿と同様に歌舞伎の衰微を見ることがあつてはならない。幸にも心を同じうする人々、各方面の好意ある協力を得て株式会社歌舞伎座が設立され、如何なる危険も難事も、尊い演劇芸術の為に乗り越えなければならないという強い信念のもとにこの歌舞伎座の復興が行われたのである。

そして今日この復興した歌舞伎座の立派な姿を目の前にして、ただ私は歓喜の心で一杯になると同時に眼がしらに自然に熱いものを感ずる次第である。演劇史上に於て古い伝統と功績を持つ歌舞伎座の名前が、今日以来再び大衆に親しまれ、そして育てられて行くのである。

さて、この立派で豪華な歌舞伎座はこうして目出度く復興したのであるが、それは同時にこれからの歌舞伎座と歌舞伎に対して、更に新しいそして大きい理想と抱負を抱かしめるものである。言わば歌舞伎座が復興したということは、容器が出来たということで、中味はこれからである。歌舞伎座という演劇の大殿堂に、艶麗な歌舞伎という花を咲かせるかどうかは、これからの問題である。

歌舞伎座は明治の中期に、團菊左によつて歌舞伎再興の花を咲かせ、大正年代から昭和の初期に於ては歌右衛門、仁左衛門、幸四郎、中車、羽左衛門、梅幸、左團次等によつて、いわゆる歌舞伎劇全盛の黄金時代を作り、更に菊五郎、吉右衛門、猿之助、三津五郎等が加わることによつて演劇芸術としての地位が一層高められたのであるが、日本の演劇史上、その最も華かな頁はすべて歌舞伎座の大舞台から生れたのである。

この歌舞伎座の隆盛と呼応して、関西に於ても純西洋式建造物の雄大さを誇る大阪歌舞伎座又道頓堀に建ち並ぶ由緒深き五座の櫓、そして年に一度の東西顔見世興行の歴史を持つ京都四条の南座、以上の各座と東西ともに歌舞伎の隆盛を誇つたのである。しかしながら演劇の興隆というものは、この歌舞伎座のような大舞台があつて始めてその隆盛時代が作られるものである。

同時にまた歌舞伎という芸術が、如何に貴いものであるか、そして日本人としてこの舞台芸術を持つていることが如何に誇りとするにたるものであるか、との自覚から、すべて再出発しなければならない。

まづ、歌舞伎は古い伝統によつて、様々な要素が凝集されている。音楽的なもの、舞踊的なもの、絵画的なもの、更に人情、宗教、歴史、ロマンス。これを彩どるに動きの美、形の美、誇張の美を添えている。これだけ挙げただけでも、現代人の趣味に合わないものは一つもないのである。

外人の方々が歌舞伎を見物されて、こんな立派な芸術が日本にあつたのかと驚かれるのは、まず最初に歌舞伎が音楽的であることと舞踊的であることとである。この二つは言葉が分らなくても、見る人の胸を直接に打つものがあるからである。

最近或る外人の方が、随筆の中でこう書いて居られる「戦争までは何でも日本が第一番だという思想が流行していたが、敗戦後は手のひらをかえすように日本の文化をも国家をも軽蔑して、ただ外国のことのみを模倣するのは悲しい事である」と。全くこのとおりであつて、かく美しく完成を遂げた歌舞伎という芸術は、今後も永い将来に渡つて保存保護され発達しなければならないものである。

勿論歌舞伎も時代と共に、益々その美を加え、いよいよ艶麗なものになるであろうが、卑俗に流れず徒らに迎合せず、演技が益々練磨され、品位が向上して行くならば、日本文化の誇りである歌舞伎、国家の尊い財宝でもある歌舞伎は、この歌舞伎座の大舞台に、その花を繚乱と咲き誇るであろう。

私は心からそれを祈り、それを思い、この歌舞伎座が観客の皆様に行末永く愛されて、そして行末永く繁栄するよう希つてやまないものである。

『歌舞伎座の意匠について』
東京藝術大学教授 吉田五十八

東京藝術大学教授 吉田五十八

この前の歌舞伎座は当時東京美術学校(現在の東京藝術大学)教授であつた岡田信一郎先生の傑作でありまして、大正十四年一月華々しく開場式を挙げた時などは、その豪華さにさすがの東京人も驚嘆したものでありました。それから二十五年の歳月が経た今日、はしなくも同じ学校で教鞭をとる私が、先生の傑作の戦災復興工事の設計を担当することになつた事は奇しき因縁と云ふ外は御座いません。この岡田先生の傑作を出来うる限りあの華かな立派な昔の姿に返へさうと苦心は致しましたが、何せ終戦後のことゝて建材資材思ふにまかせず、それに更に困つたことは二十五年前の建築と云へば四分の一世紀前の設計でありますから、当時はいかほど名建築であつても、今日の進んだ建築技術から見れば不備の点が沢山にありまして、これも出来るだけ修正致しましたが、尚力及ばざる処が沢山に御座います。先づ構造の主体が昔のまゝであります上、戦災で脆弱になつたところを補強したゝめ、座席の柱がばかに太くなつて仕舞たり、廊下の天井が低くなり過ぎたり、二階桟敷(ギャラリー)を支へて居る鉄柱が取りきれず、昔ながらに残つて居たりして、皆さまにも不愉快の感じをお与へする個所が沢山にあると思ひますが、これも俗に云ふ「古家の雑作」の常として何卒御許しを乞ひたいと存じます。

外観は戦災前のものを皆さまは詳しくは御記憶はないと思ひますが、正面は殆ど前のまゝこれを補修致しましたが、観客席と舞台の屋根はこれを平屋根(フラットル-フ)に致しまして、近代感覚と藤原桃山時代の優雅な味とを持たしたつもりで御座います。又玄関ホールは古来よりの日本建築の表現をもつ外観に対して甚だしく不調和にならない程度の近代性と時代性をもたせ、又色彩は日本味豊かな古代色を基調と致し、従てホールとしての雰囲気は濃朱の漆の丸柱と、び間の金霞の西陣織と、壁面の豪華なつゞれの錦と、天平時代の鳳凰の緋の絨毯との階調は、天井の間接照明によつて明るく華やかに浮出され、幕間の休憩の一時などは一大社交倶楽部の姿と化することゝ存じます。又ホ-ル二階は左右に喫煙室をしつらへて休憩時間を快適に致し、それに錦上更に花を添へる意味で、劇場として未だかつて企て得なかつた芸術院会員のみの画廊が現出したのであります。これは大觀、玉堂、栖鳳を初め我国当代の芸術の最高峰のみを集め、さながら常設の最高の展覧会場の観を呈することゝ存じますが、また幕間の皆さまに芝居と別の意味での眼の保養をして頂けることゝ存じます。次は観客席のことに移りますが、由来歌舞伎劇の劇場は例外なく全部が全部、格天井であることは皆さまも御記憶があると思います。この前の歌舞伎座もその例にもれず格天井でありましたが、この度は前例を破て豪壮な吹寄竿縁天井としまして舞台から一幕見の席まで尾州檜の通し天井と致しました。そのために音響的には戦災前より数段とその音響効果が改善されました上、二本の竿縁の間に間接照明と夏冬の冷暖房とが装置されて居りますから、日本的雰囲気の内に文化的設備が巧妙に隠されて装置してあることは、格天井の時との時代差を如実に現はしたものと存じます。その他舞台に対しての照明は、歌舞伎劇は勿論、新劇、歌劇を標準と致しまして、照明室を左右後の六個所(映写室も完備)に設け、三階にスポットライトを数十個並列して照明陣に万全を期してあります。舞台正面(プロセニアムアーチ)は巾九十一尺、高二十一尺の大舞台で周囲は尾州檜を使用して昔ながらの豪華な檜舞台を現出して居ります。又上部の大欄間には西陣苦心の特種織物が張られ、その後に隠された拡声機からは舞台の名ゼリフが皆さまの御耳に達することゝ存じます。また周囲の壁面は最新の吸音材料によつて音響的効果が考へられて居り、それを更に日本的文様に依て美化されてあります。その他各階食堂は各室ともその性格によつて意匠をかへ、或は近代的に、或は東洋的に或は日本的にそれぞれ変化をつけて居り、その食事に対する特異性を意匠色彩によつて変化を付けてあります。

尚このほか、舞台関係、電気、冷暖房等に関しては木村武一氏が述べられます故こゝには省略致します。

『歌舞伎座の諸設備について』
建築士 木村武一

建築士 木村武一

再建歌舞伎座の諸設備について一通り簡単に記します。

一、舞台設備

(イ)廻り舞台
廻り舞台の直径は六十尺で、これを動かすのに一〇馬力の直流モーター二台、更にこのモーターを動す為に四〇馬力の直流発電機を備へて回転速度を自由に調節することが出来る様にしてありますから、如何なる演劇にも利用することが出来ます。

(ロ)セリ出し
セリ出しの数は大小四ヶ所で、内電動二ヶ所、手動二ヶ所ですが、将来これと同数の大小セリを増設出来る様に余地をとつて有ります。現在は廻り舞台の内に間口四十八尺五寸奥行六尺(二〇馬力)と、間口二十八尺奥行九尺三寸(一〇馬力)の大ゼリと、間口九尺奥行四尺(手動)の小セリとが設けられ、花道のスッポンは三尺四方ですが、セリは三尺×六尺で介酌人も同乗出来る大さで、この手動セリは一人で容易に安全に上下させることができるようにしてあります。

(ハ)釣物
釣物の数は全部で九十六ですが、この内電動が六十七、手動が二十九で、舞台面には所作舞台を釣るもの八台のみで、残りは皆大簀の子の上に機械を据付けております。これに使つてあるワイヤーロープが全長六万八千尺、麻ロ-プが五千尺で、これに使つてある車は全部ボールベヤリング入であります。

(ニ)緞帳
緞帳は四枚。総て蓄電池の電源を使ひ直流モーターで上下させますから速度が自由に出来、もし一般電灯に停電があつても差支無く上下で出来ようにしてあります。

二、電気設備

(イ)変電所
変電所は地下室に有りまして、三三〇〇ボルトの普通高圧で、配電会社から受電しまして、動力用には二〇○ボルト、電灯用には一〇〇ボルトに変圧して各所に配電しております。舞台照明と残置灯は、停電時に警報べルが鳴りましたら直ちに蓄電池の電源へ切り替へられるようにしてあります。

(ロ)蓄電池設備
予備灯電源設備には、蓄電池と予備発電設備との二つの方法がありますが、音響と切替時間との関係から蓄電池を選びましたので、その容量も大きなもので一〇〇ヴォルト三○四五キロヴォルトアムペヤーで、約五時間の停電がありましても芝居を続けることが出来ます。これに充電する設備は、五〇馬力の電動発電機で地下室の変電所と並んで設けてあります。

(ハ)照明
舞台照明はボーダーライト七本、サスペンション、ホリゾントライト、フートライトその他客席部六ヶ所のスポット室共常備のスポット五十六台、合計三〇〇キロボルト。これを十一台のオートトランスで明闇を操作し新旧演劇は勿論、歌劇その他総てに使へるようにしてあります。

(ニ)撮影用照明電源
歌舞伎座を舞台として映画を製作する為めの撮影用の照明を取るため、又将来テレビジョン放送用の照明電源として舞台照明以外に客席部に五〇キロボルトづゝ取り出せる所を各階ニヶ所づゝ、六ヶ所設けてあります。

(ホ)客席部照明
客席の大天井は間接照明で一六五〇灯、二、三階の桟敷端が二二〇灯、その他は造り込み照明で、脚元灯等を合計しますと約二五〇〇灯になります。客席以外では正面玄関と同広間の天井は間接照明、地階大食堂は蛍光灯とネオンの間接照明と普通電灯の並用、その他は大部分が造り込み照明を採用し、電灯の総数約八千灯であります。

(へ)電話設備
局電話は一〇本、構内電話四〇本で、内局電話五本は三階の電話交換室に入れ、他の五本はそれぞれの部所に直通として入れ、他に構内のみの自動交換電話十二本、直通電話八本で連絡してあります。

(ト)拡声機設備
増幅機を一階放送室に置き、舞台口の上部に大型拡声機を二個、各階廊下に二ヶづゝ、大食堂その他要所に小型の拡声機を取付け、マイクロフォーン五ヶにて舞台の音響効果を揚げ、又は場内のアナウンスをして観客の便を計り、別に増幅機を一台、照明操作室に置き、別のマイクロフォーンで舞台演技の進行情況を楽屋、一幕見切符売場、事務室等に知らせるように設備しております。

(チ)映写設備
映画の映写も出来る様に、最上階映写室の映写機二台に停電時に備へ、交流直流の二系統の配線がしてあります。

(リ)火災報知機設備
舞台部、客席部の要所に自動火災報知機を、地下室一、二、三階の四ヶ所には消防署直通の火災報知機を取り付け万一に備へてあります。

三、給水排水衛生設備

(イ)市水給水設備
四吋(インチ)の市水道本管から、地階の受水槽に受けた市水を、三馬力のタービンポンプ (予備一台)で三階東西便所の天井裏の水槽に揚水して、三階以下の洗面所、食堂その他に給水する外、四階便所と三階正面の食堂に給水する為には、五馬力のタービンポンプ(予備一台)で一幕見席天井裏にある水槽に揚水して居ります。

(ロ)井水給水設備
地階に四〇馬力一昼夜一万石の揚水能力のある深さ二〇〇尺の井戸からボアホールポンプで揚水し、これを一旦沈砂槽に入れて砂を沈殿させた後、七・五馬力のタービンポンプ(予備一台)で三階東西便所天井裏の水槽に揚げ、三階以下の洗浄水として使用するものであります。

(ハ)給湯設備
地下室の汽罐室に長さ一〇尺直径三尺(容量二トン)の貯湯槽を据へ、三階迄の各洗面所、名食堂厨房と、楽屋の洗面所浴槽に給湯し、配管中の冷却に備へ、二馬力の循環ポンプで循環させ、いつも温い湯が出る様に設備してあります。別に四階洗面所と三階正面食堂用として、屋根裏に小型の貯湯槽を設けてあります。この二つの貯湯槽は、専用のセクショナル型汽罐5-S-10からの蒸気で、常に摂氏七〇度前後の湯が用意される設備であります。

(ニ)排水設備
衛生器具、水流しその他から排水される汚水や一般排水は、取まとめて地上階は直接屋外に導いて市下水に放流しますが、地階の排水は舞台下と表側左右階段下の排水ピットに集め、これをポンプで排水します。舞台下のピットには、機械室回りの排水、表東側ピットには、厨房からの排水が流入しますので、五馬力の竪型排水ポンプに予備として三馬力のポンプを据へ、西側ピットには二馬力のポンプ二台を設備してあります。

(ホ)消火栓
本館には一七ヶ所、楽屋には六ヶ所に消火栓ボックスを納めこれには本館は口径二吋(インチ)の消火栓に五〇尺二本づつのホースを備へ、楽屋は一・五吋の消火栓に三○尺二本づつのホースを備へて標示灯でその位置を示してあります。地階に專用のポンプ(一五馬力、水量毎分六〇〇立(リットル))を設備して、各消火栓内のスイッチを押すことによつて直ちに運転すると同時に、機関室に警報ベルが鳴る様になつて居ります。この消火栓は、屋上水槽にも、連絡してありますから、ポンプの故障や停電の時でも有効に消火出来る様にしてあります。尚ほ一階の両側にサイヤミーズを設けてありますから、消防署のポンプからも、室内の消火栓に給水する事が出来る様になつております。

(ヘ)直接暖房設備
観覧席以外の遊歩廊、食堂、事務室その他は、低圧蒸気を放熱器に送つて暖房するもので、汽罐と機械類は次の通りであります。
セクショナルボイラー二基。自動給炭機一基。真空ポンプ一基、放熱器は(本館)一二三組、(楽屋)五九組。

(ト)温湿度調整裝置
本装置は、観客席に冬季は椅子の下から新鮮な温風を吹き出し、大天井と一階と二階の桟敷天井換気孔から汚れた空気を吸込ませて暖房し、夏季は逆に天井から涼風を吹き出して客席の下から吸込ませて快適な冷房をすると同時に空気中の湿度を加減する装置がしてあります。その為に二〇馬力の噴霧ポンプ(口径6")によつて長さ九尺巾一九尺高さ八尺五寸の空気洗浄機内で空気を洗浄し、冬季はエロフィンヒーターで加熱した空気を五〇馬力の送風機10番(長さ七尺巾八尺高さ九尺)で客席に送り、又二〇馬力の送風機で排気します。夏季冷房の場合は、地階に設備した二二〇馬力ターボー冷凍機(製氷二〇〇トン、冷凍水量毎分二六○〇立(リットル))で冷却した水を、前記の噴霧ポンプで噴霧させ、空気を洗浄すると同時に冷却して客席に送ります。冷凍機の冷媒(ダイクロメタン)を凝縮させる、云ひ換へると熱を取る為に、毎分一六〇〇立)の多量の井戸水を地階の深さ二三〇尺の井戸から四〇馬力のボアホールポンプで汲み揚げて、凝縮機に送る設備がしてあります。

(チ)換気設備
地階大食堂、売店、電気室等は地階に、その他の各食堂厨房、便所、映写室等の分は、屋上にそれぞれシロッコ型の排気機を備へ各室に応じてレヂスター、天蓋を通してダクトで換気しております。

(リ)ガス設備
本館東側道路に埋設のガス本管から四吋(インチ)鉄管で引込み、四個のメートルを通して食堂、舞台、楽屋、株式会社歌舞伎座事務所等に配管してあります。食堂用としては、ガスレンヂ、ガス七輪、スティームテーブル、消毒槽、湯沸し等に、舞台用は舞台のストーヴ、大道具製作等、楽屋は主として湯沸し用、歌舞伎座用も主として湯沸し用に供するのであります。

四、建築概要

工事請負 清水建設株式会社
建築許可 昭和二十四年九月三十日
起工 昭和二十四年九月三十日
総坪数 三、〇〇六坪四四
竣工 和二十五年十二月三十日
所要日数 四百五十七日

『木挽町の芝居』
川尻清潭

川尻清潭

この度歌舞伎座の改築落成に際して、その所在地である木挽町の芝居の話をします。これは木村錦花著「近世劇壇史」に、最もくはしく述べられてあるのを、ここに多少のぬきさしを行ひ、大体原文を借用してその要点だけを抜粋します。

木挽町の地名は、慶長十一年に江戸城造営のみぎり、多数の鋸匠(のこぎりしょう)をこの土地に置いた所から、それが町名となつたと伝へられ、即ち木挽町又は木引町と称した事もあると云ひます。

寛永年間の江戸の地図に依れば、木挽町は八丁あつて、三十間堀沿岸一帯の地は町家を列ね,その他に尾張大納言、紀伊大納言、松平越後守等の蔵屋敷と、京極主膳、加藤喜助の屋敷があり、それが東方近くの江戸湾の一部に面してゐたのが、万治元年に築地の埋立工事が完成して、かつての島原の役に蘭人の献上した大砲を、この海岸に試用した為に、鉄砲洲の地名が出来た次第、この鉄砲洲は諸国回船の到着地となり、江戸の中央へ通ふ咽喉として、益々繁栄を極めた事は、浅井了意の「東海道名所記」にも、「鉄砲洲へ上り、それより木挽町の方へ行きたれば、喜太夫が浄瑠璃その他、異類異形のものを見する」、と記されてありますから、いろいろの見世物小屋が並んでゐた事が想像されます。

それが文久年間に至つては、木挽町は一丁目から七丁目までに区切られ、明治初年に入っては、近傍の藩邸地を合併して、一丁目から十丁目までに編成され、その内一二三丁目と八九十丁目は大名屋敷の敷地であり、四五六七丁目は町家であつたと言ふ事です、さうして松平周防守の屋敷は、「鏡山旧錦絵」の狂言の局岩藤と中老尾上のいた旧跡で、現在の新橋演舞場のある所です。

その木挽町に初めて芝居小屋の建つたのは、今から三百余年以前の、正保元年五月に、岡村長兵衛と言ふ人が公許を得て、六丁目の地へ山村座を建築して、その二代目が山村長太夫を名乗つたと言います。但しこれには二三の異説があつて、寛永十九年に木挽町四丁目へ、山村小兵衛の芝居を興行し、後にこの小兵衛が改名して、長兵衛になつたとも伝えられてゐますが、しばらく前説に依れば、この座元に実子がなかつた所から、甥の七十郎を養子にして、二代目を襲がせましたが、二代目の子が又女計りであつた為に、他から婿を迎へて、三代目長太夫を相続させた処、この三代目の時になつて大事件が勃発しました。

それは正徳四年三月の事、同座の役者生島新五郎と、大奥の老女江島との密通が顕はれたのです。この件の真相には諸説があり、新五郎が長持の中へ入つて大奥へ忍び込んだ相手は天龍院と増見と言ふ奥女中主従であつたのを、江島の恋愛に結び付けたものと秘録もありますが、この新五郎は元大阪の生れで、始め野田蔵之丞と名乗つた役者、十四歳から舞台に立つて、二十一歳で新五郎と改名四十三歳まで人気が落ちなかつたと言うが、江島一件で三宅島へ流され、二十九年間を送つて江戸へ戻り、七十三歳で死去してゐます。その当時の関係者座元を始め三十余人が、死罪又は遠島追放などの刑に行はれ、芝居小屋は取壊され、財産はことごとく没収されてしまいました。始祖岡村長兵衛が業を創め、木挽町草分けの狂言座として、全盛を極めた山村座も、遂に廃座の止むなきに至つた訳で、この災厄はひとり山村座のみにとどまらず、その余波は各座にも及ぼして、共に興行を停止されてしまつたのです。しかしそのままには捨置かれないので、当事者が種々に手をつくして、公儀へ嘆願に及び、七月に入つて漸く興行は許可されたとは言へ、一層厳重な法令が出て、その筋の峻烈苛酷な干渉の下に、劇場主並びに出勤俳優達は戦々恐々としていたと言う事です。

処でこう話をして来ると、江戸の劇場は木挽町から始まつたやうに聞こえるかも知れませんが、そうではなく、今より三百二十七年前の寛永元年二月、二代将軍徳川家光時代に、京橋中橋の南地、現在で言へば日本橋通りの丸善の付近へ、元武門から出て、歌舞音曲をよくした猿若勘三郎が、京都から下つて官許の櫓を上げたのが、そもそも江戸歌舞伎の根元であつて、座名を中村座と称したのは、同人の本姓の中村を襲用したものではなく、その頃はまだ中橋の地名はなく、中の村と呼ばれた土地へ建てた小屋、即ち通称中村の芝居と言慣れたものとも伝へられていますが、幕府の古文書にはこの座名を狂言座と書上げてあり、又別に猿若座と書いた記録もあります。徳永種久の「江戸紀行」にも、中橋に狂言踊、浄瑠璃、糸操り等,見世物の記事があるのに見ても、当時の盛り場であつた事が分ります。さうして木挽町へ山村座の出来たのは,中村座創立から二十年後であつた事を申添へて置きます。

右の中村座に就ては、本編に関係少なき事故に、敢て明細をつくす必要はありませんが、江戸歌舞伎の開祖であるだけ、芝居道に種々の慣例を残している点を、二つ三つ摘記して見れば、最初櫓の上で人寄せの太鼓を打つた事が、お城に近い場所だけに、旗本の登城の太鼓に紛らはしい為、禁止されて舞台で打つ事になつたのが今日の着到太鼓の始めであり、又初代勘三郎が、将軍家の御用船安宅丸入津の船音頭を勤めて、金の麾と二紺三つ白の陣幕を拝領した。その陣幕へ柿色を配して、劇場の定式幕を案出したのが、各座の狂言幕の始めであり、尚これは後年の話ですけれど、安永八年の同座に「御贔屓年々曽我」上演の時、岡崎勘六事勘亭と称した、御家流の書道指南に、狂言名題の看板を筆太に書かせたのが人目を引き、且は「内へ入る」筆法の延喜を祝い、後に「勘亭流」と呼ばれて各座に用いられ、現代に於ても古典劇の名題書き、乃至は出勤俳優の姓名を記す、庵看板にはこの書体が行はれているなど、多くの古式を伝へています。この中村座は後に中橋から堺町へ移されました。

ついでに村山座即ち後の市村座と言へば、座元は堺の人村山又三郎と言つて京都の劇場主同苗又兵衛の弟ですが、寛永十一年三月、江戸葺屋町に村山座を創立したのです。二代目は村山九郎兵衛門。三代目は上州下妻の人で、これが市村宇左衛門を名乗り、座名を市村座と改称。四代目に若衆形で名のあつた竹之丞が出て、八代目が寛延元年に初めて羽左衛門となつて、現代十六世まで続いている家柄です。余談ながら江戸三座の梗概として書加へて置きます。

お話は前へ遡つて、山村座開場の五年後、慶安元年に同じ木挽町の五丁目へ、河原崎座が建ちました。この座元は筑前山崎の人で、河原崎権之助と言い、猿若が上手であつた所から、能狂言を歌舞伎へ取入れる工夫をして、その興行を打ちながら、九州より京都へ上り、能役者の寶生太夫と倶に江戸へ下つて、ここで歌舞伎役者となり、又座元をも兼て、河原崎座の櫓を上げた時代には、その付近に火消屋敷で有名な、柳生の屋敷があつたと言います。以下累代の中六代目が傑物であり、一時は七代目團十郎の子(後の九代目團十郎)を養子として、長十郎を名乗らせ、又七代権之助を継がせました。八代目は後年新堀へ河原崎座を再興して、團十郎常打ち小屋に当てたものの地の利が悪く成功せず、後に新堀座となつて廃座、その子が今の前進座の長十郎です。

それから次ぎは、万治三年に至つて、やはり同じ木挽町五丁目へ、森田座が出来たのです。座元は森田太郎兵衛、一名鰻の太郎兵衛と言はれた人、故郷の摂津から江戸へ出て、どう言う手蔓を求めてか、しきりと諸大名の屋敷へ出入りをして、遊芸の出来るのを売物に、幇間的にもてはやされていましたが、その実は内心劇場建設の野心であつたので、努めて権門に近付き、後援を得やうとした望みが叶い,願いを上げて許可を受け、その四月に櫓を上げる事が出来たのです。

この時代の興行主、即ち太夫元又は座元はいずれも舞台に立つて技を演じ、或は口上を述べたもので、公然俳優を兼業していたのですが、太郎兵衛は座元になるとすぐに、当時の道化方で、踊のうまかつた坂東又九郎を抱へて、同人に舞台上の事を一任し、自身は表面へ立たなかつたと言います。その後太郎兵衛に実子のない所から、又九郎の次男の又七を養子に貰い,この又七を前記猿若勘三郎の門弟として、勘彌と改名させました。これが現代十四代目を相続している、守田勘彌の初代であります。

後に太郎兵衛が隠居して、初代勘彌が座元を続ぎ、自ら采配を揮う事になりましたが、その頃の森田座は山村座の勢力と繁栄に比べては、到底競争の出来ないものでしたけれど、山村座が生島事件で断絶した後には、河原崎座も継目がなく、寛文三年に至つて森田座へ合併して、自然森田座が木挽町を独占する事となつて、堺町の中村座市村座と、三座がてい足の形ではありましたものの、地格に於て木挽町は堺町の次位に在つたので、充分の人気は得られなかつたと言います。この森田座が後に猿若町へ移つてから安政五年七月の新舞台開きの時、森田の姓を守田と替へたのは、森の下の田では実のりが悪いとの理屈で、守田即ち田を守るとすれば、必ず実入りがよかろうと言う、御幣担ぎの延喜から出た改称でした。

又寛永十年に堺町へ都伝内の都座、寛文元年に木挽町五丁目へ、女舞いの座元桐大蔵が小芝居を作り、色気を売物にした女芝居を興行した所、たちまち失敗して廃座してしまい、その外正保二年に芝神明境内へ、笠屋三勝の小屋の掛つたのが、宮地芝居の始めであり、承応元年には葺屋町へ、玉川彦十郎の玉川座が許される等,劇場は盛んに勃興したものゝ、栄枯盛衰も又甚だしかつた中に、或時代は堺町の中村座、葺屋町の市村座に対して、前に述べた山村座、森田座、河原崎座を「木挽町の芝居」と言つたもので、文政年間に上梓された、「江戸名所図絵」に依れば、「木挽町五丁目の森田座歌舞伎芝居連綿として相続す」と記され、その挿絵に森田座の顔見世の景容が画かれて、茶屋茶屋の二階の造り物、一の橋(木挽橋)から川に陸に諸人が雑踏を極めている図を現はしてあるなど、当時の全盛が偲ばれると共に、木挽町と歌舞伎芝居との関係は、山村座の創立から今日までに延べ時間三百余年の歴史があるのです。

又話が前へ戻りますが、一時木挽町で第一位を占めた森田座の興行は、万治三年から享保十九年まで、七十余年間を続けましたが、この事業に伴ふ通弊として、利益よりは欠損が大きく、負債も莫大なかさに昇つて、劇場の地代も滞り、地主から訴訟を起されてしまひました。そこで双方が白洲へ呼出されて、突合せ吟味となつて時の名奉行大岡越前守の裁断で、森田座側は敗訴に終り、休座をしなければならない、悲運のどん底に陥つてしまつたので、そうなるとたちまちに困るのが、櫓下に生活する多数の関係者であつて、稼ぎ場所を失つて糊口に窮する所から、一同相談の結果新劇場の建設を思立ち、その筋へ嘆願に及んだのですけれど、その頃の江戸の劇場制度は、新規の建築は許されなかつたのを、前記の通り廃座になつていた、河原崎権之助及桐大蔵乃至都伝内等の後継者が現はれて、各自祖先の由緒書を楯に、それぞれ劇場再興の儀を願い出ました。これにはさすがに筋目も立つているので、やがてお取上げになつたとは言へ、誰でも許すのではなく、三人の中一人ならば差支へなしとの言渡し、それも願い人自身の名義ではなく、何処までも森田座の代興行として、つまり森田座が興行出来ない期間だけを、代つて興行を差し許すとの主意であり、森田座再興の場合には、如何なる事情があつても、興行権は異議なく元へ戻す条件の下に、漸く新興行が許可になつた訳、この制規が後世に伝へられた、「控へ櫓」と称するものとなつたのです。

そこでこの代興行を新劇場出願人の三人の中、誰が実行者になるかと言う事から、恨みッこなしにくじ引で定める方法を取つた処、二世河原崎権之助がこれを引当て一旦廃座した河原崎座が、改めて森田座の控へ櫓として享保二十年七月に再生されました。然もこの控へ櫓の興行は、延享元年までの十年間継続したのですが、その内に森田座が再興して、当然河原崎座は休座になつたものの、森田座の財政が困難で順調に打つ事が出来ず、控へ櫓との交代を頻繁ならしめました。

その当時の森田座の位置は、木挽町のどの辺にあつたかと言うと、現在の歌舞伎座の向ふ横町、今では昭和通りと呼ばれているあの一部分であつたらしく、明治三十二三年頃、歌舞伎座の方から行つて、その往来の右側の中程に、新川の酒問屋鹿島清兵衛の経営していた、玄鹿館と名付けた写真館のあつた処が、森田座の跡と言う事。それは同館を建築する時、地行の際の土中から土台石や、劇場用の木材が堀出されたので、立証された話が伝つています。尚寛政年間の調査に依ると、当時の森田座は間口十一間三尺、奥行二十間であつて、所在地は五丁目と六丁目の間の一の橋際、と言つて三十間堀の沿岸ではなく、橋から左へ寄つて、川岸を向いて櫓が上つてゐたと言う話は、丁度玄鹿館の在つた場所に相当するように思はれます。座の前側には川を背にした芝居茶屋その他商家も並んでいたでしようし、朝まだきに二代目團十郎が、二挺艪で楽屋入りをしたとの話も残つている位、芝居見物の片はずしの推茸たぼを乗せた家根船が、三十間堀を船で往き来して、ここの桟橋へ漕ぎ着けた、絵のやうな模様などが想像されます。

その時代の三十間堀は、近年のように水の汚い狭い川ではなく、川幅も広く水も澄んでいて、美しく流れていたのでしようが、文政年間の埋立工事で両岸がすぼめられ、私達が知つてからは狭い川になつていました。それでもまだ船宿の一二軒は、残つていたものですが、終戦後最近この川も埋立てられて、橋下を道路にした三原橋が、以前はここに川がありましたと言う、僅にその証拠を示しているだけになりました。右の森田座は天保十三年の、水野越前守の庶政改革に当つて、堺町と葺屋町の芝居が猿若町へ転座の時、森田座も同年十二月六日木挽町を立退いたので、跡が急に寂しくなつて、一時は代名屋敷の替地に当てられもしましたが、その後維新の変動で、大名は藩地を返還する事になり、いづれも屋敷を引払ひ、一倍寂寥を極めた町になつて、近所の采女ヶ原に在つた小屋掛けの見世物までが、あまり繁盛しなかつたそうですが、ともかくも官許を得た香具師の、稼ぎ場所にはなつていたのです。

斯くて猿若町へ引移つた江戸三座、中村座、市村座、森田座の大歌舞伎にしても、その時代の劇場の建築は甚だ粗末なもので、場内の便所と言えば外に四斗樽がいけてあるだけの事、桟敷の戸を明放つ夏季などには、臭気の為に居たたまれず、芝居茶屋へ行かなければならなかつた訳。然も各座共に再三の火災に逢つて、類焼の度毎の仮小屋は勿論バラック建、本普請にしてからが、現代の場末の映画館以下の小屋で、それが明治にまで及んでいたのです。しかし幸い俳優には名人上手が続出して佳き演技を後世に残す成績を挙げました。この間の諸事の変遷は、年代記にくはしくありますから略しますが、越えて明治五年に森田座は中央区の新富町へ進出し、その十月に開場式を行い、同八年の九月に所在地の町名を取り用いて新富座と改称、斯道の才智に秀でた十二世守田勘彌は、これまでに例を見ない立派な大劇場を完成して、要路の大官を招待するなど、莫大な借金に追われながらも、頻と演劇の向上に熱中しました。そうして猿若町に在つた中村座が浅草区の鳥越へ転じ、市村座が下谷区の二長町へ移つたのです。

以上簡略ながら、昔の木挽町の芝居の説明を打切つて、今度は明治の木挽町に移つて言えば、そもそも歌舞伎座の創立は、明治二十二年の事であつて、当時の劇界は展覧演劇の後を受けて、朝野の名士の間に演劇改良論が湧立ち、その実行が叫ばれていた折、但し俳優側には明治の三大名優と謳われた、團十郎は時に五十一歳、菊五郎は四十六歳、左團次は四十八歳であり、技芸はいよいよ円熟の境地に入り、更に活躍の勇気と向上心に燃えていた時代、時勢に適応した一大新劇場、「歌舞伎座建つ」との声が、晴天のへきれきの如くに伝つたのです。

座主は当代の文豪として、蘭英の語学にも通じていた、福地源一郎事櫻痴居士、かつては外交の機務に与り、幕府の使節で渡欧した事もある才人。出資者は貨殖の術に老けた上、且又芝居の経営にも経験を持つた、五郎兵衛町さんで通つた千葉勝五郎であり、この両人が握手をして計画の進むと共に、敷地の選定に取掛つた所、木挽町三丁目に東京府第三勧工場の所有地、約二千坪のあつたのを、木挽町と言えば芝居には最も関係の深い、歴史のある土地の事とて異議なく決定、早速出願して許可を得一坪金四円余で払下げられました。場所は昔の森田座より幾丁か離れていますが、この位置はその以前松平伊豆守の屋敷跡とも、又細川越中守の屋敷跡とも言われ、その当時からの三丁目になつています。

当時の記録に依れば、敷地は千五百五十五坪、建坪は外郭を除いて四百五十七坪五合、間口十五間、奥行三十間、表掛りは左右に角屋を建出した洋風造り、棟までの高さ六十尺を算し、大倉組日本土木会社の請負、設計者は工学士高原弘造で、八ヶ月余を費して落成しました。内部は全部日本風の三階建、すべて節なしの檜材を用い、舞台上の大欄間は鳥たすきの切組み、桟敷回りには香容を彫刻し、天井を繁骨の傘を開いたような形に、百本の骨で組立たのは、日本最初の試みであると言われ、この中央に新式のエレクトリア灯を釣し、三十六個の電球が一時にぱつと輝いたのに驚いたものでした。又観客席は土間、高土間、鶉(うずら)、二階、三階、桟敷と東西と向う正面を合せて、定員千八百二十四人の外に、一ト幕見の席がありましたが、その他では場内を円形にして、何処からでも見易いようにした事と、更に新工夫は土間桟敷の揚板を上げれば、椅子を置て腰を掛けて見られる趣向と中央の大歩みを溝にして、開幕中に其処を人が歩いても、舞台の邪魔にならない思付きでしたが、殆んど実際の役には立ちませんでした。この外二階桟敷裏の休憩室、三階桟敷裏の売店なども、在来の劇場には見られなかつたものでした。

舞台は間口十三間奥行十六間、廻り舞台は蛇の目廻しで、外廻り直径九間、内廻り七間、本花道は幅五尺、仮花道は二尺五寸、この様式は昔ながらの歌舞伎の慣例を取つたもの、又チョボ床を上手下手の二箇所にしたのはこの時が始め、尚在来の劇場は高さ十一尺の定めが、ここでは十七尺に造られたのは、三階桟敷が増えた関係です。表看板は入口の上へ並べる旧式を廃し、座の前へ別に銅葺き屋根のある掲示場を作り絵も従来の鳥居派をやめて芳年門下の年方に当らせ、名題の文字も勘亭流を避け、かねて能書の櫻痴居士自身が執筆しました。尚是までの出方の祝儀を廃して茶、莨盆(たばこぼん)、敷物等の手数料に替へ、飲食物は注文以外の品を出さぬ事等、諸事改良を加えた企画を実行、始めは改良座乃至は改良劇場の名で開場の筈を、歌舞伎座と改める事となりました。従つて番付の如きまでも、人形の紋所の名壺を廃し、役人替名は旧習の位付けでなく、場割登場順に書入れる方法を行つたなど、今日行われる場割番付の始めとなつたものです。

斯くて歌舞伎座は当初福地、千葉両座主の、理想興行を実現する手筈であつたのが、いざ開場の間際になつて見ると、遠大の抱負も結局素人の手には負えず、幕内の事務一切を守田勘彌に託し、作者部屋も河竹一派に任して、黙阿彌がスケの名義で出勤して、ともかくも明治二十二年十一月二十一日に、当時としては素晴しい一大劇場の、開場式の初日を目出度く明けました。この時舞台前へ釣つた蓬莱山に浪模様の緞帳は、名工縫秀の作品で、贅沢この上なしと言われたもの、その調製費用金壹百五拾圓と言うのを莫大な事に噂されましたが、今回落成の歌舞伎座へ釣込まれた緞帳は一張の値約金一千萬圓と言うのが今日の相場です。

外に座方役員の誰れ彼れ、出勤俳優の連名、狂言作者の順位、楽屋の行事、十一軒の付茶屋の改善等と話はつきませんけれど、以来それぞれの変遷は本書所載の「歌舞伎座物語」及「興行年表」に、大体が記入されてあるのに譲り、当欄では以下手短かに、歌舞伎座の建築史だけを述べる事にします。

この間二十三年相立ち、同四十四年度に至つては、さしも豪華を誇つた歌舞伎座も、事実の上に建ち古りて、すべての装飾が時代におくれ、一方丸の内に帝国劇場の、白亜の洋式大殿堂が出現しただけ、一倍の見劣りを感じ、興行者田村成義は改築の急務を重役に説き、この建策が容れられて、夏中を休場し、横浜の運送業柏木多七の普請奉行、名古屋の清水組の請負で改造に取掛りましたが、土台の骨組みをそのままに残して、純日本式に大修繕と増築とを施し、工事を急いで落成を告げた外観は、帝劇とは反対に古代の宮殿式、正面の車寄せは唐破風造り、二本の大柱を青銅で包み、その天井は檜の格組み、銅葺きの釣庇を付け、左右の平家も同じく破風造り、右は三階桟敷の入口、左は一ト幕見の口、又内部正面大玄関は格の鏡天井、右側を事務所、左側を観客案内人の詰所、大廊下を通じて観客席に入れば、二階三階向正面に至るまで、総檜作りの高欄付、土間の上は二重折上げの金張りの格天井、五千燭光の黄金灯二個を点じ、その周囲に多数の電灯を備へ、階上向正面の後ろは廊下を挟んで、大広間を一般観客の休憩所に当てた設計、別室には和洋の化粧室を設け、更に別棟には座付茶屋を廃した、新規の案内所が出来るなど、面目を改めた構造振り、正面の大間に鳳凰の櫓紋を染抜いた、紫縮緬の幔幕が搾つてある宏々しさに、通りすがりの老人が神殿と間違えて、お賽銭を上げて礼拝をして行つたと言う話があります。

処がこの修繕中の八月上旬に、歌舞伎座株式会社の内部に、一大事件が突発したのは、同社の重役を以て成る同志会の一派が、その持株三千株を、他へ売渡す契約を結んだ事で、然も買主の正体は当時の歌舞伎座の商売敵である、松竹合名社であるのが分り、座付俳優及関係者の狼狽は勿論、同座の相談役であり興行者であつた、田村成義が憤慨の結果、中村芝翫その他の同志を語らい、手付金を倍返えしにする解約法を講じ、万難を排して漸く元へ納つたてん末は、別記の「歌舞伎座物語」にくわしい筈ですからここには略します。同時にこれも当時の劇界の問題であつた、中村芝翫改め歌右衛門襲名の件にも、大阪の初代鴈治郎が競争相手に現われ、双方に理由はあつたものの、十一代目仁左衛門の多大な肩入に依り、東京に五代目歌右衛門の実現を見る運びとなり、折からの新築完成の歌舞伎座に於て花々敷披露興行を行いました。

越えて大正二年十月から、歌舞伎座は松竹の大谷社長の経営となりましたが、大正十年十月三十日に漏電の為に火を発し、多くの名優が妙技を競つた芸術の殿堂は、一朝にして烏有(うゆう)に帰してしまいましたが、たちまち再築の議がまとまり、翌十一年六月に工を起して、地下工事に着手した時、その舞台下あたりに井戸の跡が十七箇所も現われて、そこから木管が縦横に引かれ、呼び水をした形跡を残していた事は、この辺にいわゆるお長家のあつた事が推察されました。それから同十二年五月には上棟式も済み、大体の建物の外廓も形を成した際、九月一日の関東大震災に出遇つて、一頓挫を来たしたにも拘らず、十三年三月に再指令を得て工事を続け、建築工程総期間二十六箇月を以て、同十二月十五日の竣成まで、従業職延人員一百〇五萬四千三百四十九名を要しました。

右歌舞伎座の設計は、工学士岡田信一郎担任、大林組請負、敷地は東西五十間南北四十五間、二千三百五十坪に及び、延坪合計三千六百六坪七合、本館の屋根の高さ一百尺に達し、様式は奈良朝の典雅壮麗に、桃山期の豪宕妍爛を併せ、鉄筋コンクリートを使用して耐震耐火の日本式大建築を造る試みを敢行したもの、観客席は全部椅子席の外に、東西桟敷だけを畳敷の座席にして、次ぎの間を設けた贅沢振を見せ、その他各階の喫煙室休憩室、又食堂は別館にも及ぼし、大中小団体の宴席を準備し、各種の飲食物が用意され、冬の暖房夏の冷房まで、電気換気装置を施しました。殊に舞台は従来の歌舞伎劇に宜く、且又現代の新劇上演にも適するよう総計五百坪に近き設計は、世界でも稀に見る大舞台であり、廻り舞台の直径六十尺、蛇の目の外廻し八尺、中廻し四十六尺に作られ、照明器具は米国とドイツとの、最新装置を取寄せた等、内容外形ともに日本一の大劇場として、自他ともに首都の誇としたものであり、同十四年一月に開場式を挙行、以後昭和二十年まで打続け、その五月二十五日の夜、戦渦の爆撃を受けて崩壊外郭だけを、残して内部はことごとく焼けつくしてしまいました。

但し市民の復興的活躍は誠に目ざましく、歌舞伎座も亦満都の高庇に浴して、新に株式会社歌舞伎座を組織し、当事者経営者共に心を協せ、逸早く劇場の修理補築に従事し、遂に空前の芸術府を完成、新しき勇気と感謝とを以て、一層諸設備の整備したこの大殿堂に、いよいよすぐれたる演技を上演し、弘く文化に寄与すると共に、往古より芝居に関係の深かつた木挽町に、更に明治大正昭和の三代を通じて、劇界唯一の誉れの高かつた歌舞伎座の再興された事を、大いなる喜こびとしたいと思います。

就ては今回の歌舞伎座の事は、その設計者吉田五十八主任、及請負者清水建設株式会社清水康雄社長の説明がありますから、ここには略しますが、明治二十二年木挽町に初期の、歌舞伎座の出来た時の建築総費用が金参萬五千圓、同四十四年第二期の修築総費用が金十二萬圓、大正十二年第三期の新築総費用が金二百五十萬圓、今回の昭和二十五年第四期の改築総費用が金二億八千萬圓と言う計算になつています。

昔の木挽町には山村座、河原崎座、森田座がありましたが、今の木挽町には歌舞伎座と、新橋演舞場の二軒です。その替り築地に東京劇場、有楽町には日本劇場及びピカデリー、有楽座と宝塚劇場等があり、更に将来殖えて行く傾向もある有様、この文化の中心地に立つて、最大の権威を持つ歌舞伎座は、市民劇場としての役目を果す事は素より、一面に国立劇場の代用として、有意義な興行をも行い度考えられます。

本編そうそうこの際の執筆とて、よく全貌をつくし得ませんが、これを以て木挽町の芝居の話を終ります。

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